ひがのぼると読む「夢を紡ぐ」③
このシリーズは、ひがのぼるといっしょに「夢を紡ぐ」をもう一度、当時に想いを馳せながら読もうという企画です。
※「夢を紡ぐ」は、2002年4月から2004年9月に毎日新聞(京都/奈良版)に掲載された子ども館の実践報告を書籍化したもの
当時を振り返って。
「日本の学力を下げた教育の市場化」内田 樹(リスクを生きる)
「日本が疲弊しているのは、子どもや教育に十分な予算を投じていないからです。」泉 房穂(前明石市長)
「子どもを家庭や学校とは異なる場所に避難させ、その子が持っている自己治癒力を少しずつ活性化させることによって、前に向かって進んでいく気持ちを取り戻すのを待つことだ。」石井 光太(教育虐待)
「子どもを(束)(集団)として扱い、社会に送り出す近代教育のモデルは、子どもの人権を十分に大切にできていない。そこで、学校に行けない子どもたちが出てくる。彼ら彼女らは、学校に不適応なのでなく、学校が「不適応」なのである。」西郷南海子(ママの会・発起人)
「歳月は人を待たず」と言います。子ども館の子たちは、フリースクールにやってくる時期も年齢もさまざまです。
だが「ここは、ありのままの自分を受け容れてくれるのだ」という安堵感と、対きあう大人たちへの安心感が、日々蘇ってくるのだろう。
本音を曲げぬ、その清々しさに洗われ、老兵は密かにほくそ笑む日々です。
ひが のぼる
人の輪が応援団に 2002年5月18日号
1992年4月から1995年3月までの3年間を 北京で過ごした夫の海外赴任に、自身の仕事を退職して同行した。赴任する間際まで後任の方に 引き継ぎやら送別会やらと全く準備のないままの 海外での生活となった。夫の勤務する北京日本人学校では管理職である彼を通訳がサポートしてくれた。その彼女が今、京都大学の大学院に留学してきている。5年前私費留学生として日本に来て以来、わが家での中国語講座が始まった。初めのころは日本語指導を共に学んだ仲間が生徒だった。帰国してから私は、中国から日本の学校に学ぶ、全く日本語の分からない子どもたちの日本語教師を公立の小中学校でしてきた。文化や生活習慣、言葉の違いから起こるさまざまな問題を、子どもの意見を丁寧に聴きながら越えてきた。日本での生活習慣を少しでも理解してもらうため、度々わが家に泊めたり、電車に乗って大阪市の海遊館をはじめ、いろいろなところへ出かけていった。
子どもとの出会いを通じて家族間の問題解決の助言などもしてきた経験から、外国で生活することの大変さが身をもって分かる。
月2回講座に学ぶ人たちと、夫や私が作るささやかな昼食を通じて世界中を一回りするくらいの話題に花が咲き、居ながらにして世界旅行している気持ちになる。子ども館をつくろうという計画 はこんなところから生まれた。中国語講座で学んでいた友人は2年間アメリカで仕事をして帰国した時、「帰るところがあってよかったわ」と言ってくれた。その彼女は今、フリースクールの子どもたちに数学を教えている。
講座は丸ごと子ども館に移行した。日本語教師、中国に単身赴任の方の奥さん、今から中国で仕事をされる方。留学から帰って言葉を忘れないために中国旅行が大好きなどなど、人と人との交流の輪は水面に広がるそれに似てとどまるところを知らない。こうした人の輪が、子ども館から地球村に飛び出していく子どもたちの応援団になっていくことだろう。
比嘉 冶代