ひがのぼると読む「夢を紡ぐ」⑤
このシリーズは、ひがのぼるといっしょに「夢を紡ぐ」をもう一度、当時に想いを馳せながら読もうという企画です。
※「夢を紡ぐ」は、2002年4月から2004年9月に毎日新聞(京都/奈良版)に掲載された子ども館の実践報告を書籍化したもの
自立について。
「目は口ほどに物を言う」という表現があります。
「眼は心の鏡」とも言いますね。
それぞれの理由で「自分が自分であること」の尊厳を失った子どもたち。
子ども館に来て、相次いで目に表出させるものは「自分は自分らしく生きていいんだ」ということ。
それぞれに持つものを表出させることで「刺激」と「安堵」と対きあう同門の日々で会得する完成は尊い。
「三つ子の魂百までも」はまさに「金言」と思う日々に活かされている仕合わせに、深謝する日々です。
ひが のぼる
自分はこれから始まる 2002年6月2日号
「教師や親が悪を排除することによって「よい子』をつくろうと焦ると、結局は大きい悪を招きよせることになってしまう」と言ったのは、かの河合隼雄さん(心理学者)である。
また、「自立は何らかの悪によって始まるとさえ言える」とも言っている。 「よい子」とは全く無縁で育ったぼくには、今日のこのような状況の把握が希薄だった。
敗戦の痛手からまだ立ち直れず、日本中の人たちが生活するだけで必死だった時代。
親は子どものことを構う余裕などない明け暮れの中で、それを幸いなこととして5人兄弟の2番目であったぼくは高校を卒業するまで悪ガキを張り通した。
そんなぼくの眼には、わが子ども館の4人の生徒たちはおしなべて賢くて何でもできる「よい子」たちなのだ。
それが悪いというのではない。不必要なまで周囲に気遣う「よい子」の仮面をかぶることによって疲れ果ててしまっては本末転倒だといいたいのだ。
保護者懇談会の後、二人の女子生徒の母親が期せずして発した言葉が「子ども館に行くようになってから、今までのように私にベタベタ引っ付かなくなったのがうれしいような寂しいような」であった。
長い子で5年、学校に行っていない子どもたちの中で何かが動き始めているのだろうか。
それぞれの保護者の方がわが子の様子や要望を伝えて下さった。
「今まで近所を歩くのも嫌がったのが、今は恥ずかしくない。子ども館や周りの人たちの思いやり、友だちの存在で自信を取りもどした。もっと早く来ればよかった」
「ここへ来て欲求を吐き出すと落ち着くみたいです」
「自分ちを往復しているようだ。友だちと比べることなく自分はこれから始まる、と娘は言っています」
「人間の体は朝起きて生活するようにできている。お医者さんのこの助言がうちの子には効いたようです」
どんなに辛くても、親しい人との分離の体験が自我の確立のためには避けて通ることはできない。第二の誕生の呻き声を喜んで聴こう。
比嘉 昇